| 11月(人) | 累計(人) | |
| 長野 | 18 | 1,327 |
| 全国 | 1,079 | 89,100 |
*患者登録数 5,856人(内長野県95人)
公共広告機構(AC)キャンペーン「親でさえ一致しなければ、わが子に骨髄液をあげることができない」が10月末から全国のテレビ・ラジオと新聞で開始され、大変大きな反響を呼んでいます。11月1ヶ月の電話問い合わせ件数は財団発足以来はじめて9,000件を超えました。ドナー登録拡大に向けて、何よりのご支援となっています。なお、パソコン通信「ニフティーサーブ」のご協力によるドナー登録申込みが11月18日から開始され、これまでに500件の申込みがありました。これは、パンフレット・チャンスの内容をパソコン通信で見て、ドナー登録申込みができるシステムです。(ニフティーサーブのアクセスコマンドは、GO MARROWです)
本年4月〜11月末現在までのアメリカ、台湾との相互検索・移植等は下記の通りです。
インターネットの急速な進展が、社会の情報ネットワーク化を一挙に進めています。こうした時代の変化に対応し、遅ればせながら財団のホームページを12月6日に仮開設しました。
1)パンフレット「チャンス」の内容紹介とドナー登録申込み、2)各都道府県の地域マップ・情報、3)骨髄バンクの各種統計情報、4)財団からのお知らせ、5)その他関連団体ホームページ等の紹介を行っていきます。なお、インターネットによる「ドナー登録申込み受付」を開始しています。当面、1)、2)、3)から順に構築し、全体の完成は来春となります。
ホームページアドレスは、http://www.jmdp.or.jp/です。
厚生省「造血細胞移植と免疫応答に関する研究班」は、骨髄バンクにおける患者・家族からの相談援助を調査研究テーマの一つに取り上げ、12月15日(月)から相談受付を開始しましたのでお知らせいたします。
電話番号は、03-3365-6888(平日の 13:00-17:00)です。
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| つばさの会 | 県保健予防課 | 保健所 | 合計 | |
| 長野支部 | 7 | 1 | 1 | 9 |
| 上田支部 | 3 | − | 2 | 5 |
| 松本支部 | 4 | − | − | 4 |
| 飯田支部 | 9 | − | − | 9 |
| 計 | 23 | 1 | 3 | 26 |
急な連絡にもかかわらず、多くの方に参加していただきました。皆様ご苦労さまでした。
でも、長野で12月の推進月間は厳しい!!
コートのポケットに入っている手袋をした手にチラシを渡すのは忍耐の一言。渡す方は素手でないとうまく渡せませんね。
12月6日に行いました、骨髄バンク街頭キャンペーンの報告を致します。
気温13度と比較的暖かな冬の晴天の中、私達飯田地区キャンペーン参加者は、午前10時より指定のアピ夕飯田店に三々五々集合してくれました。
参加者は、つばさの会の矢沢さんとその知人4名、私の妻と妻の兄弟夫婦の4名で、総勢9名(男性6名、女性3名)が勢揃いし、打ち合わせ後はっぴとタスキを掛け、用意したパンフレットとティシュペーパー等300組を「アピタ飯田店」「サティ飯田店」の2ケ所に分かれ配布しました。
当初の予定2時間が1時間20分で配布完了できました。
反省点
配布で感じたこと
最近の寒さは厳寒を思わせるものがあり、猫も人間も、こたつやストーブにしがみ付きたいような異常気象の連続でした。
こんな中、私たち「つばさの会」では12月6日、東京都における財団主催の骨髄バンク堆進月間全国大会に合せて、長野・松本・上田・飯田の4支部で、それぞれ骨髄バンク街頭キャンペーンを実施しました。私たち上田地区では、午前10時から上田駅周辺で、ビラと、ティシュペーパーを配りながら、折からの寒嵐も吹き飛ばす気概で「骨髄バンクにご協力をお願いします」を連発し、師走の街を行き交う人びとに声を枯らして呼びかけました。
差し出したビラとティシュに対して素直に「ありがとう」「ごくろうさま」と、私たちの労をねぎらってくれる人もあれば反面、横を向いて見ぬ振りをして通り抜ける勤め人風の男、聞こえない振りをして駆けるように通り過ぎる若い女性などなど。昔から単細胞で気短かな私は、「こん畜生!物売りや、街頑での物乞いじゃあねえぞ!」と、若干アタマに釆ながらも我慢しながら作業を続行しました。すると、私たちの前から2〜3メートルほど行き過ぎた60才くらいの女性が突然引き返して来て「先はどは、骨髄バンクを堆進している皆さんとは知らず、印刷物などをお断りして本当に申訳ありませんでした。許して下さい。」と謝って下さり、私たちの労を心からねぎらってくれました。
私は、この一言を聞いて今までの、むしゃくしゃしていた気分が一気に払しよくされて感激・・・さわやかな気持ちをとり戻し、さらにやる気を引き起こして最後までハッスルすることができました。
お陰で、この日の晩酌は、あの時の感激の言葉を肴に、一本余計においしく頂きました。
因みに、この日の暦を見たら大きく大安となっており暦も私に味方してくれていました。
骨髄バンク登録 長野で呼びかけ(12月7日付け信濃毎日新聞より)
骨髄バンク推進ボランティア団体のつばさの会長野支部のメンバーらが6日、長野市のJR長野駅前で骨髄バンクへのドナー登録を呼び掛けた。12月は全国的にキャンペーンを展開しており、松本、上田、飯田市でもアピールした。
骨髄移植は白血病や再生不良性貧血などの治療法。骨髄提供を申し出てバンクに登録している人は全国で約九万人、うち県内には約千三百人いるが、ここ一、二年は全国的に登録者数が伸び悩んでいるという。
同駅前では、メンバーに誘われて来たという十代の学生二人も加わり、約十人が参加。同支部の小林延子さん(四十八)は「目標は全国で三十万人。ドナーには、二十歳から五十歳という年齢制限もあるため、常に新しい人に理解を広めていきたい」と話していた。
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待ちに待った退院だった。かつらを披って服を着た私は、一見普通の人に見えて何だかうれしかった。が、ふと自分の置かれた状況を考えるとそんな気持ちも吹っ飛んだ。「寛解になって元気で外来に通ってくる人も沢山います。」と初めに言った主治医の言葉、それは、嘘ではなかった。そして今、自分が、その元気な人の仲間に入っている。だけどこんなはずじゃなかったんだよな。ちゃんと治って外来に通うと思っていたんだよな。と思ったものだった。
参観日、音楽会、懇談会、親子レク、とにかく出られるものには、全て出た。人から私のことを聞いていたらしい知り合いの人たちは、廊下で私の姿を見るとまずぎょっとしてそして、「たいへんだったね。みんな本当に驚いたんだよ。退院してよかったね。」と言ってくれた。中には、心配したんだよう、と泣いて抱きつく友達もいて、そうなると私も泣けてきて、知らない人が見れば、この二人学校の階段で何やってるの、と驚いただろう。もっと親しい友人たち、病院に見舞いに釆てくれたり、手紙のやりとりをして私の様子を詳しく知っている友人たちも、相変わらずいろいろな方法で私の気を晴らそうとしてくれて、それはそれで、とてもうれしかったが、このころ私はとにかく白血病のこと、移植のことを許しく知っている人と話したくてたまらなかった。友人の一人が話題の「脳内革命」の本を送ってくれたが、もし人が前向きに闘病することで病気に勝てるとしたら、いっもぐずぐず、めそめそしている私は、やっぱりすぐ死ぬ、と思う始末だった。とにかく精神論はいらない。という気持ちだった。
ある日私はバンクに電話することを思いついた。バンクの人なら何か相談に乗ってくれるだろう、と思って、NTTの番号案内に「骨髄バンク財団の番号を教えて下さい。と、とんちんかんな名称で聞いた。主治医がよくザイダン、ザイダンと言っていたからだ。それでも案内嬢は、骨髄移植推進財団の電話番号を教えてくれた。電話に出た女性は、私の、とにかく相談相手が欲しいと言う話をじっと聞いてくれたが、財団としてもそういう患者さんの力になりたいとは、思っているが、今のところどうにもならない、と言って長野県には、「つばさの会」というボランティア団体があるからそちらに電話をしてみるようにと教えてくれた。私と「つばさの会」というか斉藤さんとの出会いだった。
このときから今までどれだけ斉藤さんに力になってもらったかしれない。会ったことのない、電話だけのつきあいだったからかえって何でも話せた気がする。医者も看護婦さんも病院から一歩出れば普通の生活が待っている、それがくやしい、というような、今考えるとまったくわがままそのものの愚痴を聞いて貰ったこともあった。また斎藤さんから「フェニックス クラブ」という血液患者の団体のあるのを聞いてこちらにも入った。送られてくる会報は、主に患者の投稿からなっていて、「今無菌室に居るが、マルクをして、生着したって分かった。」とか「移植後再発して再移植して、死にそうだったがなんとか生き延びた。」とかそんな記事ばかりで私は、移植して助かった人が、実際に居るんだと実感した。
また、友人のAさんのご主人が何年か前、信大で実際に白血病の治療をしていたと聞き、お話を聞いたこともあった。そして、もしよかったら、といって昔読んだという移植の本を貸してくださった。ところどころに赤線のひいてあるその薄い本には、はっきりと「成人のリンパ性白血病は予後不良であり、ドナーが見つかり次第移植の対象となる。」とあった。そんなことは、さんざん主治医から言われていたのに、こうして活字になっているのを見ると改めて、そうなのかと納得した。そこにあった移植後の生存率は、やっぱり3割くらいだった。
Aさんが一緒に橋本明子さんの「一本の羽をください」という本を貸してくださった。偶然同じ頃主人が、橋本さんの「飛べ、白血病の息子よ」という本を買ってきた。その2冊には、白血病の息子のためにバンクを作ろうと日本中どころか、外国まででかける母親のすさまじい戦いが載っていた。橋本さんだけでなく、何人もの患者たちが移植のためにHLAの合うドナーを必死で探している姿が書いてあって、そのためにアメリカまで行く方もいらした。そしてなんとか日本にバンクを作ろうとしていた。
橋本さんの本の中にこんな文があった。なんでも子どもが白血病になると国から何か無料パスが出るそうなのだが、「これを欲しいと戦った母親たちの子どもにはこれが間に合わなかったかもしれない。しかしそのおかげで、こうして私たちはこれを手にすることができる。バンクも、うちの息子には間に合わないかもしれないが、後に続く患者さんには間に合うだろう。」そういう文だった。何という崇高な気持ちだろうか。もし私が同じ立場だったら、果たしてこう考えられるだろうか。こういう方たちのおかげで、すこし後から病気になった私は、何もしなくても、バンクにドナーを見つけてもらえるのだ。このころから移植に対する私の気持ちが少しずっ変わってきた気がする。橋本さんに感動した私は、出版社に橋本さんの電話番号を聞いて、電話をした。全く面識がなくても、電話しようと思いたつと、すぐ電話をする。このころ、私は、すっかり図々しくなって、病気の事を聞くためには、橋本さん以外の人にも、平気で見ず知らずの人に電話をするようになっていた。電話は、当然ながら、橋本さんのご自宅ではなく、「日本つばさ協会」という、やはりボランティア団体の事務局で、結局私は、そちらの会にも入り、橋本さんや他のボランティアの方々にもずいぶん悩みを聞いて貰った。
「つばさ協会」からの会報に「自家骨髄移植」とか「末梢血幹細胞移植」とか聞き慣れない名前があって、外来の際、主治医に聞いた。すると彼は、その説明をしたが、リンパ性の場合は、どうしても再発しやすいので、坂井さんには、向かないと思う。と言われた。ああ、再発、再発・・・どうせなるなら骨髄性の方がまだましだったか、などと思った。ところが、次の会報に、大阪の方の先生の発表で、ALLの患者の自家骨と末梢血と他人の骨髄を使う移植の生存率の曲線グラフが載っていた。ゆるやかに下に下がってゆく3本の曲線は始めの2、3年はほとんど重なっているが、それからだんだんに差がでてゆく。私は、ふと、ここに、化学療法だけの生存率を書き込んだらどうなるのだろう。と思い、つぎの外来で主治医に聞いた。暫く考えていた彼は、
「たぶん成績は一番、悪いでしょう。」
「えーっ。それなら先生、私、このまま化学療法を続けるのは、いやです。ドナーがだめなら、自分ので、移植したいです。」
そう言った後で、私は、自分で自分に驚いて、ちょっと、ちょっとお。移植は危険だからいやだったんじゃないの。と思った。危険でも仕方がないのだ。それをくぐり抜けることができれば、白血病が治るんだ。そう思うことにした。
自家骨、自家骨、と騒ぐ私に、主治医は、
「坂井さんは、どうしても悪い方へ、悪い方へ、と考える癖がある。今一人3次検査までいったドナーが、居るんだから、その方に断られたら、別の方法を考えよう。」と、おっしゃった。
生まれて40年、特別、運が強いと思ったことはない。じゃんけんは、かなり弱いほうだし、商店街の福引きは、いつもラップかティッシュ・・そんな私にドナーが見つかるはずがない。そう思っていた私に、その3次検査までいったドナーの方は、提供を承諾してくれたのだ。
平成8年1月末移植のために、私は、佐久総合病院に入院した。入院する前、そこの関先生から主人と一緒に話を聞いた。実にはっきりした話だった。「このタイプの白血病で、何歳の人の生存率はこれくらい。と言ってあげられるといいけれど、そんなに沢山のデータが、ない。とりあえず今の日本の急性白血病の第一寛解期の5年生存率は、5割。」と、おっしゃった。もし信大で6割、と聞いていたら、ここでショックをうけたかもしれない。しかし、私は、それまでいろいろなことから、3割と思っていたのだ。5割もあるんだ、とうれしくなった。また万が一の時のため私の末梢血を採っておいてくれるとおっしゃった。関先生の話を聞いて、突然希望が倍になった気がした。
入院してからも驚くことは、続いた。病院には、私の前に移植した人やGVHD等で入院している方が何人かいらしたが、その多くは、私より年上だった。入院してすぐに同室だった方は、たぶん先生の配慮からだったと、思うが、秋に移植をして、退院間近の方だった。私が始めて間近に見た移植患者だった。その方から詳しいことをあれこれ聞いたが、その方は、何かというと、「移植って言ったって、過ぎてしまえば、何だか忘れちゃったよ。」などと陽気なことを言われて、私としては、何だか肩すかしを、食らったようだった。また、あるとき、談話室の冷蔵庫を覗いていると、突然、後ろから声を掛けられた。「今度移植する坂井さんってあなたでしょ。何だかうんと心配してるらしいけど、だいじょうぶよ。先生の言うことを聞いてやっていれば、絶対うまくゆくから。私みたいなおばあちゃんだって、この通リピンピンしてるんだから。あなたみたいに若い人は何の心配もないわよ。」
振り向くと、おばあちゃんどころかピアスをしたおしゃれな方が笑っていたが、確かに年は、私よりも結構上そうだった。「あなた」と言う発音が「ああた」と聞こえる、さばさばした感じの方だった。病院の移植患者には、男性も若い方もいたろうが、とりあえず私の回りにいるのは、中年の、そして私よりも年上の方ばかりだった。中には53才という方もいた。確か「坂井さんは、年齢的には、ギリギリというところです。」って言われたよなぁ。と思いながらも久々に若いと言われて私はうれしくなった。
驚くことならまだあった。信大では、血液患者はマスクをするのが当然で、病室に入る人は誰でも手足の消毒を念入りにした。ところが佐久では、そういう決まりはないらしく、マスクをしている患者など一人も居なかった。それでも私は元来臆病なのだろう。結局移植までマスクをし続けたと思う。移植の前に末梢血を採ってもらった。万が一ドナーから骨髄が届かなかった時、これで移植できるというわけだ。そのために化学療法を一回やった。白血球が500くらいになったが、食事は、それまでと変わらなかった。なまものを食べていいんですか。と聞く私に、先生も看護婦さんも自信を持って大丈夫、と言った。「今まで10年間、これできてトラブルは無かったからね。でも自分がどうしても心配ならやめておいたら。」そう言われたが、結局食欲には勝てず、生野菜もおさしみも食べてしまった。でも言われた通り下剤も腹痛も起きなかった。それどころか、熱が出なかった。この時の薬は、真っ青な色をしていて、私は、ブルーハワイと呼んでいたが、多分これを使った時信大で肺炎になったのだ。高熱、肺炎、薬疹、にしき蛇・・・そのどれもが起こらず、私は、快調そのものだった。
そんなことやら、先輩の話やらでだんだん移植に対する恐怖が薄れていった気がする。また先生が佐久病院だけの移植成績をちらっと教えてくれたが、それは思わず聞き返すほどの良い成功率だった。また先生が、移植のマニュアル本を貸して下さった。専門的な本で私に理解できるのは、わずかだったが、その本の終りの方に、移植患者のQOLついて、移植後の長期生存患者は、慢性GVHD等で不都合を感じることも多いが本病の完治を実感し、体調の不調を前向きに乗り越えようとしている様子がうかがわれる。というような文があって、私は、そこを何回も何回も読んで、その文に励まされた。
こう書くと、私が移植について何の不安も無かったように思えるかもしれないが、勿論そんなわけはない。3月に入り移植の前処置の日が近づくにつれて、だんだん緊張が高まっていた。前処置は、日曜日に始まることになっていた。それでそのまえの土曜日、主人が娘たちをっれて見舞いに釆た。もしかしたらこれっきり子どもに会えないかもしれないのだ。私は子どもたちに会う前から最後はどうやって別れようか、どうしたら泣かずにすむか、と考えていた。ところが考えもしないことが起こった。主人や娘たちと談話室で話していた。そこに年配の男性が二人大相撲を観ていた。しばらくして、そのうちの痩せた方の方が娘に声を掛けた。
「やあ。おばあちゃんのお見舞いに釆たの?いい子だね。」
娘たちは、ぼかんとしていたし、私も一瞬訳が分からなかった。するともう一人の方が、「おばあちゃんじゃないよね。おかあさんだよね。」
うっそー!!事情が分かった私は、まさにチョーむかついた。つまりその方には側にいる主人が私の息子で、子どもたちが、私の孫に見えたということなのだ。別れを悲しむどころではなかった。とにかくショックで、頭にきた。廊下に出てから、すぐに主人が、
「よっぽど、目の悪いんだよ、あの、くそ、じじい。だけど君もそんな地味なセーター着るの止めたら。」
と、言った。私は、すごく頭にきていたので、心の中で、このセーターは、友人のMさんから貰った、ペルーの羊の毛を手で紡いで、績んだ高級品で、うちみたいなビンボー人が買えるもんじゃないのよ。地味じゃなくてシックと言ってくれない。などと反発していた。そして気が付くと、エレベターのドアの向こうで、子どもたちが、笑って手を振っていて、あわてて、こちらも手を振ると、ドアはす−つと閉まってしまった。
あっけない別れだった。頭を撫でてやることもできなかった。あわてて部屋に戻ってベランダから車が見えなくなるまで見送った。次の日から移植のための点滴が始まった。点滴の二日間はどうにか過ぎたが、その後放射線をかけるころになると、さすがにつらくなってきた。「小さいお子さんがいるんだから、がんばって。」とは、よく言われたが、このつらい時期、子どものことは、なぜかあまり考えられなかった。何かというとあのおじいさんの言葉が浮かんできて、元気になったら、ちゃんと口紅をつけて、ハイヒールをはいてあのおじいさんに、まあ、おじさま、ごきげんいかが?と笑ってやるんだ、とか、引き出物に貰ったきりで、もったいなくて使えなかったお皿を使おうとかそんなことばかり考えていた。あの時は、くやしかったが、今考えると、あの方に私は少し感謝した方がいいのかもしれない。
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| 「明日がいっぱい集まったなら・・・」 | ごとう 和 | 秋田書店 | 790円 |
| 「骨髄移植ガイドブック」 | 加藤 俊一 | 日本医学館 | 1,500円 |
| 「悠君ごめんね」 | 高橋 照雄・真知子 | マネジュ社 | 1,500円 |
| 「あやちゃんのスケッチブック」 | 白根 厚子 | 新日本出版社 | 1,400円 |
| 新刊「青い鳥は生きている」 | 国方 学 | ポプラ社 | 1,000円 |
上記の本は事務局にもあります。
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骨髄移植登録で土日も窓口開設(12月13日付け信濃毎日新聞より)
県衛生部と日赤県支部は今月の骨髄バンク推進月間に合わせ、通常は平日に県内四カ所で行っている骨髄移植のドナー(提供者)登録のための採血窓口を、土、日曜日にも開設する。
同窓口があるのは佐久、飯田の両保健所と、長野、松本の両赤十字血液センター。両保健所は日曜日の十四日午前九時〜午後四時、両血液センターは土曜日の十三、二十日午前九時〜正午に窓口を置き、十ミリリットル程度の採血と、登録手続きなどをする。
白血病白血病治療に有効な骨髄移植には、患者とドナーの白血球の型(HLA)が合う必要がある。HLAが合う確率は、兄弟姉妹で四分の一、それ以外は数百〜数万分の一と言われ、骨髄移植推進財団(東京)は、十万人を目標に登録者を募集している。十月末現在の登録者は八万八千人余。
ドナー登録希望者は事前に採血窓口に電話で申し込む。問い合わせは各窓口か、県衛生部特定疾患係(пF026-235-7146)へ。
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(敬称略・順不同)
匿名(20,000円)、匿名(300円)
柴田 洋幸(500円)、永井 治彦(5,000円)
白鳥志保子(切手800円分)、山中喜三郎(バザー用品)
箕輪ライオンズクラブ(テレカ 50度数5枚)
再生つばさの会(テレカ 105度数3枚)
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